益子焼の始まり 情熱の大塚啓三郎2010/06/20

今日は茨城県陶芸美術館での「THE KASAMA ルーツと展開」が
最終日なので最後にもう一度と思い観てきました。
笠間焼と関係が深い益子焼、小砂焼、相馬焼などの
近隣の産地の展示物もあらためて興味深く拝見しました。
どんな陶工が往来していたのだろうなどと想像力を掻き立てられます。
ところで、益子焼は笠間で製陶技術を学んだ大塚啓三郎という方が
江戸時代末期に窯を築いて始まったと言われています。
その大塚啓三郎は益子の隣町の茂木の出身でありますが、
少年期に笠間の鳳台院というお寺の寺子屋の門下生でありました。
住職に連れられ久野窯へと足を運んでいるうちに
製陶技術を習得したと言われています。
窯業指導所の久野さんによると、啓三郎は焼き物と出会い、土いじりが好きでたまらなくなり結果的に技術を習得したのではないかと推察していました。
中々面白い指摘だと思います。
やがて啓三郎は婿養子として益子の農家に移り大塚の姓をもらいます。この時は久野窯から遠い所へ行かなくてはならない事に切ない気持ちだったのではないでしょうか。せっかく身につけた技術を生かす事が出来ないのですから。
益子に移ると農業を営んでいました。
けれども益子の大津沢で粘土を発見してからは多分大喜びされたと思います。
築窯までしてしまいます。
その後笠間から知人の田中長平を招き仕事を軌道にのせたようです。
10年後には6軒もの窯元が出来ていました。
大塚啓三郎が焼き物作りに対しとても情熱に溢れていた方のように思えてなりません。

コメント

_ くの ― 2010/06/21 18:59

監修チェックいたしました(笑)
大きな間違いはありません。的確な文章でスゴイ!と思います。
こういった話題を取り上げてくださって、感謝、です。

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