むぎとろ量深2011/02/08

笠間稲荷神社の裏手の落ち着いた一画に「むぎとろ量深」という美味しいお料理屋さんがあります。
今夜は、そこで笠間市長と市役所と笠間焼協同組合との交流会でした。
先日日本陶磁協会の方々との懇親会もこの「むぎとろ量深」さんでした。
http://www6.plala.or.jp/RYOUSHIN/
おまかせで色々と楽しく頂きますが、
〆のむぎとろ飯はとても美味しいです。
懐かしい味でもあります。
笠間にお越しの時はぜひ立ち寄って頂きたいです。

市長や市役所とは笠間焼協同組合の今後の事業についての意見交換でした。

サケの遡上2010/11/07

午前中、東京で個展を開催中の増渕篤宥さんが遊びに来ました。
久し振りに会う事が出来てとても嬉しかったです。
増渕さんの個展は東京のうつわ楓さんとSHIZENで明日8日までです。
http://sakuragoe.exblog.jp/

午後からは家の近くの川にサケの遡上を見に行きました。
写真のように県道の車が往来がかなりある橋の下に
体長70~80cmほどのサケが10尾ほどが泳いでいました。
大きなサケが泳いでいる姿を間近に見ると感動します。
熱烈歓迎!この小さな川によく戻ってきたと思います。
しかもここは海から直線距離でも35kmあります。
聞くところによると、稚魚としてここで生まれたサケは
はるばる北極やアラスカまで4年間ほど泳いで戻って来たと言う事です。
どうしてここまでサケは戻ってくるのかは未解明。
サケの本能に不思議な力を感じます。
自然の大きな力を感じ、帰途につきました。

千葉ロッテ優勝おめでとうございます。
熱戦に感謝。

映画「ゴースト」も今週末にいよいよロードショー。

益子焼の始まり 情熱の大塚啓三郎2010/06/20

今日は茨城県陶芸美術館での「THE KASAMA ルーツと展開」が
最終日なので最後にもう一度と思い観てきました。
笠間焼と関係が深い益子焼、小砂焼、相馬焼などの
近隣の産地の展示物もあらためて興味深く拝見しました。
どんな陶工が往来していたのだろうなどと想像力を掻き立てられます。
ところで、益子焼は笠間で製陶技術を学んだ大塚啓三郎という方が
江戸時代末期に窯を築いて始まったと言われています。
その大塚啓三郎は益子の隣町の茂木の出身でありますが、
少年期に笠間の鳳台院というお寺の寺子屋の門下生でありました。
住職に連れられ久野窯へと足を運んでいるうちに
製陶技術を習得したと言われています。
窯業指導所の久野さんによると、啓三郎は焼き物と出会い、土いじりが好きでたまらなくなり結果的に技術を習得したのではないかと推察していました。
中々面白い指摘だと思います。
やがて啓三郎は婿養子として益子の農家に移り大塚の姓をもらいます。この時は久野窯から遠い所へ行かなくてはならない事に切ない気持ちだったのではないでしょうか。せっかく身につけた技術を生かす事が出来ないのですから。
益子に移ると農業を営んでいました。
けれども益子の大津沢で粘土を発見してからは多分大喜びされたと思います。
築窯までしてしまいます。
その後笠間から知人の田中長平を招き仕事を軌道にのせたようです。
10年後には6軒もの窯元が出来ていました。
大塚啓三郎が焼き物作りに対しとても情熱に溢れていた方のように思えてなりません。

笠間焼の始まり2010/06/17

今日は中学校で笠間焼の授業をしてきました。
1時間ちょっとの授業でしたけれども、
慣れていないせいか家に帰ると疲れてダウンしてしまいました。.
情けない話です。
寝不足が原因でしょうか。
学校の先生方が大きな声で1日授業されている事に
あらためて畏敬の念を抱きました。

授業では主に歴史の話をしてきました。
勝手ながらおさらいしてみますと、
笠間焼が始まったのは江戸時代の安永年間(1772-80)です。
箱田村の久野半右衛門が長右衛門という信楽の陶工の
指導のもとに始まったと言われています。
その長右衛門と言う方は、たまたま旅の途中に
久野半右衛門の家に逗留させてもらったようです。
そして長右衛門の焼き物の話を久野半右衛門がとても興味を示し
焼き物によって産業を興したいと考えたようです。
それで長右衛門に粘土を探させた所
なんと家の裏山で見つかったという事です。
そしてその頃すでに久野半右衛門は80歳ぐらいだったそうで、
実際には息子の益信が長右衛門とともに
焼き物作りに従事したそうです。
しかし、2,3年で長右衛門は突然いなくなってしまいます。
水戸のほうへ出奔したそうです。
なぜ突然いなくなったのでしょうか。
また、そもそも何で信楽の人間が旅して笠間にまで来たのでしょうか。
むしろ信楽にいられなくなった事情というものがあったと考えられます。
酒か女か博打か盗みか何かでしょうか。
想像してみると面白いです。
長右衛門はそれ以後戻りませんでした。
結局益信がお伊勢参りの帰途信楽に立ち寄り、
長右衛門の代わりを募集しました。
そうしましたら吉三郎と言う長右衛門の甥っ子が
手を上げてくれました。
長右衛門は陶工としてとても優秀だったらしく、
吉三郎はとても慕っていたそうです。
吉三郎は笠間に来て真面目に働き、その後久野の姓をもらい
現在に至っているようです。

窯業指導所の久野さんのレクチャーより。